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スペシャルウィークの生誕からライバルたちとの出会い…
1995年5月2日。北海道沙流郡門別に居を構える日高大洋牧場で、スペシャルウィークは産声を上げた。父サンデーサイレンス、母キャンペンガール。スペシャルウィークを産んだ5日後、キャンペンガールは疝痛でこの世を去った。母馬と一緒に過ごすというサラブレッドにとって最も幸福な時間をたった5日間しか経験出来なかった仔馬は、馬房で独り泣き喚いたという。義理の母は気性が荒く、子守の役目を果たそうとしなかった。そんなスペシャルウィークを孤独から救ったのは牧場のホースマン達。誰よりも人を頼ったスペシャルウィークは、人懐っこく従順な性格になり、成長していった。
同じ頃、スペシャルウィークから少し離れた胆振(いぶり)という場所にも逸材がいた。アメリカから日本へやって来た栗毛の外国産馬。
アメリフローラの仔。後にグラスワンダーと名付けられる…
11月29日。阪神の芝1600mで、デビューの時を迎えた。前評判の高さを聞きつけたファンは、1.4倍の圧倒的一番人気に支持した。3番手くらいで流れに乗り、直線に入って武がスパートの合図を送ると、類い稀ない瞬発力を見せつけ見事に初陣を飾った。
2歳時は、この一戦のみで終わり、明けて1998年。
年明けの京都の条件戦、白梅賞に挑んだ。人気はもちろん圧倒的一番人気。中団から進んだが、勝負所で前が塞がる不利に見舞われた。それを捌き、伸び脚が繰り出された瞬間、公営笠松のアサヒクリークに、内から差し切られ2着に敗れた。
まさかの敗戦となったが敗因は明らかだった。調整不足。あと一週あれば完璧な状態だったと語り、同時に不足気味の状態でここまで走ったスペシャルウィークの才能に、改めて驚いたという。
素質があることは分かった。しかし、ダービーへ出るには、賞金を積み重ねなければならない。刻一刻とリミットが近づく状況で、陣営が選択したのは、格上挑戦できさらぎ賞に挑むというプランだった。
格上挑戦というと、普通は軽視する要素だが、スペシャルウィークの能力を知っていたファンは、ここでも一番人気に支持した。
負ければ道が険しくなる。そんなギリギリの状況下で挑んだスペシャルウィークは、3馬身半差の圧勝を事も無げにやり遂げ、クラシックロードに乗った。
もし、白梅賞を勝っていたら、きさらぎ賞ではなく共同通信杯を使う予定だったという。この共同通信杯を勝ったのがエルコンドルパサー。
3月8日。スペシャルウィークの姿は中山にあった。皐月賞トライアル弥生賞に挑んだスペシャルウィークの前に、2頭のライバルが、満を持して登場する。
セイウンスカイとキングヘイロー。
皐月賞、ダービーと3強を形成するライバル2騎と、ここで初めて相見えた。
キングヘイロー、セイウンスカイ、そしてエルコンドルパサーとグラスワンダー。
役者は揃った。
デビュー以来、全て1番人気に支持されてきたスペシャルウィークだったが、ここではキングヘイローに、その座を譲っている。スペシャルウィークも良血だが、キングヘイローは桁違いの良血。父は欧州の至宝と言われたダンシングブレーヴ、母のグッバイヘイローは、ケンタッキーオークスなどアメリカでGI7勝を挙げた名牝だった。
蓋を開けてみると、4コーナー付近から捲ったスペシャルが、逃げるセイウンスカイをゴール前で差し切りV。キングヘイローは、この2頭から、やや離された3着に終わった。
4月19日。第58回皐月賞。
最も速い馬が勝つ。と言われる一冠目、スペシャルウィークは、定位置の一番人気に返り咲いた。枠順は8枠18番。結果的にはこの大外枠があっけなく三冠の夢を打ち壊すことになった。セイウンスカイは、逃げずに番手からのレース。スペシャルウィークは、例によって後方で脚を溜めた3〜4コーナー。桃色の帽子が前方目掛けて浮上を開始。この馬に大外枠は関係ない。直線でスパッと差し切る姿を想像したファンの眼の前に繰り広げられた光景は、白い馬の逃走劇だった。
勝ったのはセイウンスカイ。
スペシャルウィークは、懸命に伸び脚を繰り出したが、キングヘイローにも及ばず3着に敗れた。
決して力負けによる敗戦ではない。三冠という夢は破れたが、陣営は前を向きダービーを目指した。
1998年6月7日。第65回東京優駿、日本ダービー。1995年に産まれた9212頭のサラブレッドの中から選りすぐられた18頭が、この大舞台に挑んだ。
人気はスペシャルウィーク、キングヘイロー、セイウンスカイの3強に集中し、4番人気以降は10倍台のオッズを付けていた。
いざ世代の頂点へ。
今日放送の5話で史実とは異なってくるif展開ですが…史実とどれほど変わってくるんでしょうかね?
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